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David Oistrakh

2003年8月

めてオイストラフの演奏を聴いたのはメンデルスゾーンの協奏曲だった。あの胸キュンとなる曲が大好きでよく聴いてはいたのだが、色々な演奏を聴くという冒険はしなかった。たまたま、彼のメンデルスゾーンを薦めていたのを読み、友だちのおやじさんがレコードを持ってると知ったので、ダビングしていただいた。あまり評価が高いと逆効果になることもあるが、そんな心配は全く無用だった。即、虜になり、CDを買いに出かけた。飽きずに百回くらい聴いたかも。それまで聴いていたアイザック・スターンの録音は全く聴かなくなってしまった。その代わり、他の演奏者を聴く冒険が始まった。チョン・キョンファ、パールマン、ハイ フェッツ、前橋丁子、クライスラー、みどり、クレメール、レーピン、、、。メンデルスゾーンでオイストラフの演奏より魅力的なのはありませんでした。

それから、何が始まったかと言うと、彼はすでにこの世の人でなかったから、まずは協奏曲の録音を探し、聴き始めた。レコードからCDに移行してそれほど経ってなかったから、古い録音はCD化されてないものもかなりあった。チャイコフキーはメと同じCDに入ってたのに、メばかり聴いていて、やっと数カ月後に聴き始めた。これも彼の演奏が映えるように指揮者、キリル・コンドラシンはちゃんと心掛けているという感じ。どこかで読んだが、オーマンディとの共演もそうらしい。この曲を上手く演奏する人は沢山いても、第2楽章をオイストラフほど感動させるように演奏できる人は未だないと思う。まさに天性で技術で補えるもんじゃないと思う。彼のことを書く時、高知性、表現力の豊かさ、詩人、ストーリーテラーなどの言葉がよく使われる。また、誰もが彼をバイオリニストとしてだけでなく音楽家、そして、音楽家も越え、ヒューマニストとして、人間として高く評価 している。それは、音楽、芸術のみに留まらず、文化、社会、政治などあらゆることに関心を示し行動したからだ。このユニバーサル的なアイドル化現象はフリッツ・クライス ラー*以来と言われている。

*それまで最も愛された伝説の大バイオリニストで作曲家


ある日、パールマンの弾くハチャトウリアン(アルメニア出身の作曲家)の協奏曲を借りた。なんて華やかで開け広げで哀しくもある曲なんだろう、と音楽の虜になり、早速、オイストラフのを買いに出かけた。ん〜!オイストラフのは、もっともっとすごい。迫力がある。同時代のソ連で、オイストラフに弾いてもらうために書かれた曲だ。そして、カデンサは本来演奏家が作るように、オイストラフ作。ハチャトウリアンの協奏曲はメやチャのように録音が多くない。後、生で諏訪内晶子がシアトル・シンフォニーと共演したのをたまたま聴く機会があった。

オイストラフに捧げた作曲家は、ハチャトウリアンの他に、プロコフィエフ、ショスターコビッチ等がいる。オイストラフは俗に神童と言われる存在ではなかった。ウクライナのオデッサ学院生の時、プロコフィエフの前で彼の協奏曲を弾く機会があったが、作曲家にメチャメチャに言われたというエピソードがある。後に、彼が偉大なバイオリニストになり、 当時の話が出るとプロコフィエフは恥ずかしがるのだが。プロコフィエフが書いたフルート・ソナタは、オイストラフがバイオリンのために書き直し、今ではバイオリン・ソナタ2 番としての方が知られている。

プロコフィエフが一度祖国ソビエトを捨てたのとは違い、ショスターコビッチとオイストラフは生涯ソビエトに留まった音楽家だ。1942年、オイストラフは自然と 共産党員になる。「ショスターコビッチの証言」を読むと、スターリン政権で生きること自体息が詰まり精神がおかしくなっても不思議でない。オイストラフがあのような環境でどのように活動したか知りたく、ヤーコブ・ソロカー著の「ダビット・オイストラフ」を、8年くらい前に探した時、日本語・英語版はなかった。ただ、 バイオリニストのことが書いてある本の一部という形のみで詳しいことはわからない。時代はズレるが、ロマノフ王朝後半の凶作、コレラ、戦争の繰り返しで、チャイコフキーの書き残した言葉を思い出す。
「芸術家であることは、何と幸福なことであろう。我々が、毎日、身をもって体験しているところの、この陰惨な時代には、 ただ芸術だけが重苦しい現実から注意をそらしてくれるからだ、、、*」
チャイコフスキーが亡くなった翌年、帝国は崩れるが、レーニンが一番恐れてた独裁政治の中にオイストラフ等は生きるのだ。

*「憂愁の作曲家 チャイコフキー」(志鳥栄八郎)より


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オイストラフは1908年にオデッサに生まれる。母はオペラ歌手で、継父はいくつかの楽器をこなすセミプロレベルだった。この「父」 が第一次世界大戦でドイツの捕虜になった時は、プリズン・オーケストラメンバーだった。オイストラフは、3歳でおもちゃのバイオリンを与えられ、5歳で1/8サイズのバイオリンを与えられる。彼は大バイオリニストの中では珍しく一人の先生だけに就いていた。ピョーター・ストラヤスキーといい、才能のある子供を見抜く才能があり、多くのロ シアの顕著なバイオリニストを育てた。1914年、ナタン・ミルシュタインが卒業演奏をしたコンサートで、6歳になるかならないかのオイストラフは初舞台を迎えた。16でオデッサ音楽院をバイオリンとビオラで卒業した。その年のリサイタルではバッハのイ短調協奏曲、タルティーニの「悪魔のトリル」、プロコフィエフの協奏曲一番、 アントン・ルービンシュタインのビオラ・ソナタなどを演奏した。

翌年、作曲家プロコフィエフの前で一番のスケルツォを演奏する機会があった。その時、上で書いたことが起こったのだ。しかし、数カ月後、キエフでプロコフィエフ指揮、グラズノフ協奏曲を演奏するのに招かれた。レニングラードのデビューは1928年10月10日でニコライ・マルコ指揮によるチャイコフスキー協奏曲であった。演奏会は成功したもの、始めてのリハーサルに10分遅刻したことで、オーケストラ団員からは冷たく扱われた。

モスクワに移るが、そこではまだ無名で、その日の糧を稼ぐのに歌手や踊りの伴奏、しかも寒い野外での仕事が多かった。馬車で次のタウンに移動し、 駅で寝ることもあった。1930年には、ピアニスト、タマラと結婚し、その年、全ウクライナ・バイオリンコンテストで優勝し、しだいに注目され始めた。映画「ペテルブル グの夜」の主人公が弾くカバラヤスキー作曲ソロを担当し、オイストラフの演奏が映画の成功に大いにつながった。結婚の翌年は息子のイーゴ*が生まれ、1934年にはモス クワ音学院のバイオリン助教授となる。

*イーゴ・オイストラフ バイオリニストとして現在活躍中。偉大なる父を持つ彼はいつも比べられてしまい可哀想。


翌年第2回全国楽器コンクールで優勝する。続いて、今は国際的に知られたコンテストであるが、第一回のヴィニアエフスキー・コンクール(ワル シャワ)で2位を取得。当時、ポーランドでは、アンチ・ロシア及びアンチ・シオニズムであったにもかかわらず、上位9位までに入った5人はユダヤ人であった。優勝者は 16歳のジネット・ヌヴーであり、確かに素晴らしい(私もブラームスの協奏曲を聴いた)が、この判定には色々言われている。

このコンテスト以後、ポーランド、ウィーン、ブタペスト、イスタンブールでコンサート活動が許可され、1937年、ブリュッセルのイザイ・コンクールで優勝し、それ以後、彼のキャリアは、"スカイロケット"だった。これで西側諸国で活動を始めたが、ロンドンでのデビューは7年後になる。しかし、ロンドンで62歳になるクライスラ ーの演奏を聴く機会があった。第2次世界大戦で冷戦とアメリカデビューは1955年である。その時、クライスラーが彼の演奏を聴き絶賛している。

その後、人気は衰えず、演奏家、指揮者、教育者と常に忙しく休まる時間がなく、疲れと肥満のためか、1964年、コンサート中に心臓発作で倒れる。1974年アムステルダムで永眠する。